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イラク戦争は日本国民の常識を再生させたか

文責:宣伝卿 投稿日:不明


今月に予定されている政権の移譲をもって、昨年3月以来のこのイラク戦争も一つの区切りを迎えるのだろうか。情勢は未だ流動的だが、この機会にこの場を借りて、私なりにこの戦争から受けた印象、考えさせられたことなどを述べてみたい。この戦争をめぐっては、憲法問題、安保条約、有事法制、テロ対策、そして北朝鮮問題まで、我が国の抱える様々な論点が浮き彫りになったわけだが、そこは、サークルのHP上の書き込みということであまり大きく構えず、一国民、一TV視聴者、一新聞読者の視点で、我々日本国民がイラク戦争から受けた影響ということについて考察してみようと思う。


まず、この戦争について大きな国民の関心事となったのは、何といっても自衛隊派遣の是非だろう。そして、強く印象に残るのが、派遣される自衛隊員の姿、すなはち、公の義務の為に、私情ではどんなに辛く、不安で、イヤであっても出掛けて行く人々とそれを見送る家族達の、苦悩する姿や決断する姿がTV映像として広く映し出されたことである。勿論、湾岸戦争やカンボジア・ルワンダ・ゴラン高原等のPKO活動の時にもそういう場面はあったが、生命の危険を伴う任務という点で、今回の隊員達の姿は、これまで国民が経験したことの無い、厳しく、緊張感のあるものだった。

そして、その映像、その姿は、やはり人々に無条件で感銘を与えるものであったと言えるだろう。どこかのワイドショーで女性コメンテーターが、「こんな風にねッ、自衛隊をカッコ良く映し出して大々的に扱ってイイんでしょうかッ!」とか怒っていたが、バカ女よ!お前は私情を抑えて公の義務に任ずる人間の姿が「カッコ良い」ことを自ら認めてしまっているではないか!派遣反対派による批判も、「邪悪な海外侵略の始まりだ!」といったものから、だんだんと、「今回の派遣は国益の為にも自衛隊の為にも良くないから反対」といったものへと微妙にトーンが変わっていったように思う。粛々と任務に就く自衛隊員の姿を口汚なく罵るやり方では国民の共感を得られないことにようやく気づいたからであろうと私は見る。

公の為に私を捧げる者の存在感は、百の批評より、千の議論より、やはり圧倒的に力強い。あえて表現するならば「尊い」と言うべきか。その姿がTVによって多くの国民、そして子供達に目撃されたことは、日本社会に計り知れない良い影響を与えているに違いない。そしてその経験の共有が、国民感情や国柄、そして常識といったものを形成してゆくのだろう。それはどんな道徳教育にも優るものではないだろうか。


さて、この戦争に関連して、もう一つ国民的関心事となったのが、例の民間人人質騒動である。この問題に対する国民の反応もまた、現在の日本人の意識を反映した、極めて興味深いものであった。被害者とその家族は、明らかに一定の政治的意図を持った、一般的とは言い難い「市民」であったが、その事は別としても、彼らが見せた態度や振る舞いに対して国民が示した拒否反応は、私が予期していたより遥かに常識的なものだった。無論、「見苦しい、ウザい」といった単純な反感もあったろうが、それとてもやはり、日本国民一般の共有する美意識、良識・常識といったものに障っているがゆえのことであろう。

それにしても、従来、マスメディアによって弱者(=被害者)に「指定」された人への批判などは“あってはならない”タブーだと言って良かったのであり、さらにこの事件にあっては、被害者・市民に対置されたのが政府・自衛隊という(もっとも、これも奇妙な話で、誘拐被害者と対置されるのは誘拐犯人たるテロリストであるべきなのだが)、これまでなら無条件で同情の対象と非難の矛先が定まってしまう図式であったにもかかわらず、その定型を破ってまで、被害者とその家族の側への非難が起こったというのは、大袈裟に言えばちょっとした現代史上の事件だったのではなかろうか。実際、被害者やその支援者達は、自分達の側に国民の批判が向けられた事に心底驚いていたフシがある。やがて彼らも、「お騒がせして済みません」と頭を下げる程度の態度を示すようになっていったが、始めからその程度の常識があれば、あれほどのバッシングを受けることも無かったろうに。道徳教育やしつけの重要性が叫ばれる昨今だが、彼らもあの歳にしてようやく世間から「しつけ」られたという事なのかもしれない。

いはゆる、戦後教育批判の議論の中で、「公の精神の欠如」とか「非常識な人間の増加」といった問題が言われても、それによって具体的に社会にどんな害がもたらされるのかというのはよく見えない所があった。しかし、この一件では目の前にリアルに実害が現出した感がある。「個人」を至高の価値とする教育は、身内の事で他人を動かす際に「済みません」という態度を示す事すら知らず、それを指摘されると「イヤな事をさせられた」と不貞腐れる、赤ん坊のような人間を作り出してしまったのである。

さらにその後、この事件はまた新たな展開を見せた。すなはち、被害者による外国人記者クラブでの会見をきっかけに高まった、外国メディアからの“被害者批判”批判である。従来の定型を破って垣間見えた日本人の常識的国民感情も、こと外国人から批判を受けたとなるとたちまち“従来通り”の反省癖を発揮して、小さくしぼんでしまう。だが、ちょっと待って欲しい!国や社会の在り方を悪し様に罵り非難する者が、(投獄されたり迫害されたりというなら別だが)世間から白い目で見られたり抗議の手紙を受けたりする程度の事が、“日本社会特有の現象”なんかであってたまるものか!間違いなく、多かれ少なかれどこの国にもある現象だろう。アメリカのニュースキャスターが「我が国ではちょっと考えられない事だ」などと言っていたが、空々しい事を言うなと言いたい。星条旗を焼いただけで大問題になる国の人間が何を言うのか。実際、その後イラクで誘拐された米人の家族がアメリカ政府の政策を非難したところ、被害者本人とテロリストとのつながりを指摘する非難が轟々と浴びせられたとの事である。

およそ先進国と言われるような国々にあっては、国家と市民の関係、社会と個人の関係、一般的な市民感覚などと言ったものに、そうそう大きな違いはないのである。いや、もっと言えば、人間の営みなど世界中どこでも基本的には似たようなものなのであって、他国民に説教を垂れる事が出来るほど“立派な”国民など居はしないのである。普通に考えればこれもまた常識だと思うのだが、残念ながら、日本国民が堂々とこの常識を発揮し、他国からの勝手な批判に動じない姿勢を見せる場面は、未だに見た事が無い。


さて、政権移譲も迫ったここへ来て、世界中に衝撃を与えたのが、米兵によるイラク人捕虜虐待問題である。戦場心理と言う説明だけではちょっと理解できないくらい醜悪な事件だが、しかし、日本人という立場にしてみれば、自ずと別の視点からこの問題を評してみたくなる。すなはち、あれほど非難され、「人道に対する罪」とされた、先の大戦中の日本軍による捕虜虐待行為についてである。

第二次世界大戦と言うのは、歴史上、特別扱いをされていると言ってよい。つまり、それはファシズム対民主主義・善と悪の戦いであって、同種の帝国主義諸国間の競争に過ぎないなどと言う見方は、現在に至るまで、公式にはタブーであると言える。これに対し日本が異議を唱え、中国進出にしろアジア進出にしろ、日本も連合国も同類であり、日本の行動が罪なら連合国諸国も同罪だと主張すると、連合国の反論及び反論の為に持ち出すイメージはこうだった。「日本の戦争行為は比類なく残虐なものであり、連合国の戦争と同視はできない。一緒にされては困る」と。同盟者であったはずのドイツ人もまた、自己の犯罪(それこそ比類無き犯罪!)から目をそらす為にそれに同調した。しかし、常識を持って考えれば、戦争の一方の当事者が「比類なく残虐」で、もう一方が文明的かつ良心的だったなどと言うバカげた事があり得るだろうか?ところが、あまりに破滅的な敗戦だった為か、戦後の日本人はこの常識を失ってしまったかに見える。

そこへ今回の米軍の問題発覚だ。私は正直、TVを見ながらニヤニヤしてしまった事を告白する。どこの国にも、よい人間も居れば悪い人間も居る。気高く良心的な者も居れば、程度の低い残忍な者も居よう。他国を一方的に断罪し、道徳的に非難できる国など無いのだ。報道によれば、捕虜虐待の罪で起訴された米兵達は、「ジュネーブ条約など教わっていない」と証言しているそうだ。「戦場に架ける橋」という映画の中で、日本人収容所長が連合軍捕虜に向かって、「ジュネーブ条約だと?そんなものは知らん!」と憎々しげに怒鳴る場面を思い出す。何の事はない、連合国の兵士も御存知なかったというワケだ。別の報道で見た米兵は、バクダッド市内での戦闘についてこう語っていた。「我々を撃った奴が向こうの通りへ逃げ込む。我々がそれを追って角を曲がる。するとどうだ!同じような服、同じような顔をした奴だらけだ。中にはこっちを向いてニコニコしてる奴も居る。こんな戦争はもうたまらない。神経が持たない」と。なるほど、さも有りなん、と思う。しかし、アメリカ人にはほんの少し考えてみてもらいたいものだ。通信や移動の技術が高度に発達した現代のアメリカ軍ですらそれほどやり辛く、大量の非戦闘員を誤射している有り様だというのに、ましてや半世紀以上昔の南京における日本軍はどうであったろうか、と。

非常識な、外国の自分勝手な言い分を真に受けて、なぜ日本だけが、一体いつまで、自分達の歴史を否定し、戦没者の追悼すらままならないで居るのだろうか?「日本人は日本人自身の価値観にのみ忠実に行動すればよい」という常識を、一日も早く取り戻したいものである。


と、まぁ、このように、イラク戦争は多くの事を考えさせてくれた。そしてそれは何といっても、我々日本国民が、自衛隊という自分達の持つ“力”を使ってこれにコミットするという、常識的な決断と行動をとった事によるところが大きいであろう。空想的理念をもてあそんでいるだけでは何も起こらず何も変わらない。それはまるでヒキコモリが時局評論をしているようなものだ(笑)。

戦後的空気の殻を破り、たとえそれが厳しいものであっても世界の現実に自己の力で関与していく、その経験が日本人の常識を再生させて行くのだろう。

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