期待される「大学」像?
- 早稲田大学国策研究会
- 2019年12月3日
- 読了時間: 7分
文責:陸賈 投稿日:不明
啓蟄を迎え春近しと思ったら、もう気温が25℃を越える日が出てきた。
部員諸氏と庭園美術館帰りに目黒川で花見をした日も遠い昔に思える。
私は、今回の入学式で都合三度早稲田に入学したことになるが、博士課程ともなると、別段感慨とてない。
ただ、例年通り、キャンパスをごった返す人ごみが、五月ともなると潮が引くように消え行く様は、我が校の伝統であるらしく、サークル勧誘に精を出す人達も含めた雑踏を抜ける作業は、少々鬱屈とした気分になる。
歴史教科書問題はさておき、そもそも大学は教育機関として、我が国ではどのように位置づけられるのかということをちらほら考え出すのも、この風景をみる頃である(大抵は、そんな悠長な考えを巡らす余裕もなく、研究に追われる日々に戻り、次第にこのことを忘れるのだが)。
劣等生ながらも、四年間教育思想を専攻していた身ゆえかもしれないが、今日なされる大学教育に関する議論は、私には承服しがたいものが多い。
「大学はレジャーランドだ」といった総長がいたとかいないとか言うのも昔の話だが、そんな荒唐無稽の話はともかく、バブル期の能天気な時代には「モラトリアム」だとかなんとか言って、大学が高等研究・教育機関であることは、完全に忘れ去られていた。
また、今日では、文部省(私は断固「文部省」といいたい)の方針とかで、「実学」重視の教育カリキュラムを組むのだそうだ。
そういえば、入学式でも「実学」と言う語が出ていた。
要するに、経済だの理系学問を重視せよということだ。卒業式祝辞でも「大学の価値は、卒業後如何に働いたかによって決まる」とか言った人がいて、早速哲学はお払い箱宣言かと苦笑した。
この歴史は、つまるところ近代における大学教育について、国家として一貫した方針などと言うものは、存在していないということである。
では大学とは、どうあるべきなのか?
大学の淵源は随分と昔に遡る。西洋教育史では、大学の始めはルネッサンス期におけるイタリアのボローニャ大学だと教えられたように記憶しているが、残念ながら、中国で既に漢王朝武帝期に「太学」が存在し、大学と言って良い教育・研究体制が充実しており、また蔵書・教員・学生数共に、西洋の比ではないので、紀元前1〜2世紀頃まで遡れる。
近代以前二千年の大学の歴史におけるその位置付けは、その国の文化の基礎となる諸分野の高等教養を習得して、文化を受け継ぎ、発展させ、伝えることであった。
この作業は、正に大学でしか不可能な作業である。何故なら、普通教育では、このレベルでの教育を施すことは、技術的・経済的に不可能だからである。これが近代以降どうなるか。
近代教育制度上の大学の位置付けは、産業革命以来、急速に発達する科学技術をより先進的に活用し、かつ次世代技術を生み出し、技術競争において自国が一歩リードして強力な国力を保持することが期待され、科学技術分野での高等教育機関として大学の役割が増えた。
また、それは理系の話であるが、文系では、高等教養の保持育成機関であった大学が、優秀なテクノクラートや、経営者、法律家を育成せねばならなくなった。
これは、効率性が死命を制する近代社会において、重要案件である。 次第にこちらに重点がおかれるのも無理はあるまい。
こうして、今日の大学の枠組みが成立してゆくのである。
ただ、この流れに伴い、元来、大学が期待された機能である、「文化の受容と育成、教授」というものはいきおい少なくなるにつれ、ある問題を引き起こす。
それは、近代国家が国民国家であり、その成立基盤が、ある共同意識をもった人民の支持によっているものであるが故に、その国家における文化の確認と整理作業が疎かになると、情報と流通、移動が激しさを加える近代以降において、この共同意識が崩壊し、融和不可能な所まで分裂した人民の対立により、国家の維持が困難になるのである。
こうして諸外国の各大学では、高等教養の教育の徹底を計り、初等教育において、基礎教養教育の徹底を行い、大学教育において高等教養教育をより円滑に行うことで、国家の各分野に万遍なく統一的な高等教養(画一的な教養ではなく、体系的という意味である)をもった人材を配置せんとし、実際、それに成功しているといってよい(共産圏は若干事情が異なる)。
エナルクやアイヴィーリーグを見れば、これ以上説明の要を俟つまい。
このことを通しても分かるように、高等教養、いや教養と言うものは、国家にとってアクセサリーではない。
この教養によって体系的に捉えられたその国の文化というものは、その国の国民が、それを通して認識した事物の認識の総体によって実現される、その国民族の民族意識を統一的に構成するものなのである。
そして、ある人間が、人間である限りにおいて、ある文化に必然的に加入していなくてはならないように、人間の認識において、絶対無国籍であることはありえないのである。
少々むつかしいことを言ったので、例を以て説明しよう。つまり、ある山をさす場合、「山」、あるいは"mountain"という言い方がある。
両者、抽象的に同一物を指すが、「山」といった場合、この語における具体的言語イメージとして、例えば富士山とかが想定され、またその想定物に関わる各挿話も同様にこの語に付随して、その語を使用する者のイメージを規定する。
"mountain"といった場合も、指示する具体的言語イメージを異にして、同様である。
そうしたら、この両者は、既にその想定物において、指示するイメージを異にしている。このことは、言語の総体として構成される文章の性質上、その文章を使用する人間のイメージに対し、圧倒的な規制力を持つことを意味する。
これが、抽象概念の領域に踏み込む内容を指示する場合、どうなるか。
例えば、「道徳」とドイツ語でいう「道徳(何と言うか知らないので、恥ずかしながら日本語で失礼)」の場合、「道徳」は、共同体内における対他関係において、そこの「時処位」に応じた身の処し方について、忠孝などの様々なあり方を指示する。
対して、ドイツ語で言う「道徳」は、完全に「(ドイツ人の道徳は)上の命令を完全に完遂すること。それが良いことか悪いことかは関係ない」(あるドイツ人が言っていた)ことを指す。
何と恐怖に満ちた道徳であろうか。悪魔の道徳である。このドイツの譬えは少々極端に過ぎるが、こうでなくとも、カントの指すような認識論上から導き出された道徳論、すなわち、「公民として、集団の中で合意を経て認定された、認定内容を守ること」、が道徳とされる場合と、晦庵朱文公先生(朱子)の指すような、心の分析から導き出された道徳論、すなわち、「人間が事物に対応する時、それに反応する自らの心を省みて、心の善そのものである性を存し、心の不安定な部分である情を正して、事物に適正に対応すること」、が道徳である場合とでは、最早、同じ「道徳」と言われながら完全に別物である。
こうした齟齬を抛って置き、この混乱した言語上で、文化が構成されると、最早同一国民でありながら、全く意思が通じないという悲劇を生み、それは国家の崩壊を招来することは火を見るより明らかである。
国家と大仰に見なくとも、家族ですら、同一の言語イメージを共有できなければ、既に意思疎通は不可能となり、崩壊するのである。
現代の家庭崩壊は、往々にして、言語イメージの共有が不可能になった家庭文化の崩壊に起因することが多い。
これに全く意をはらわない能天気な民族が日本人である。この危機に事前対応すべく教育機関、就中大学があるというのに・・・
もうお分かりになったと思うが、今大学に必要なのは、テクノクラートや経営者、法律家の育成と共に、彼ら及び、高等教育を享受する者(大学生)が持つべき高等教養の教育と、その基層を構成する、日本文化の体系的とりまとめである。
日本文化に限らず、日本語で解釈されるあらゆる外国文化の認識形態の体系的とりまとめも必須である。
これなくしてやれ「実学」だの言っても、何を以てそれを学ぼうというのか。
最早「実学」といって、各人が想定する内容も、「兎に角、金になること」「外国と対等に亘りあうノウハウ」「組織に実効的に益する内容」「英米並みに英語が上手くなること」「人生を上手く切り抜ける術」等等と既に齟齬を起しているかもしれないというのに・・・
実際、私が「実学」と聞いて、想定するのは、前記の諸点ではなく、強固な文化的基盤に拠った普遍的認識プロセスをこそ、それと認識している。私からすれば、前記諸点は無根拠なそれこそ「虚学」である。
孔夫子(孔子)が春秋時代に既にして「必ずや名を正さんか」と言った意義をもう一度大学生に考え直させる方が、短絡的な英語の習得や、大阪商人的な金儲けの算段を教育することなどよりいくらかましである。
賢明なる読者諸氏により、少しでも大学教育が考え直されて、大学がわが国においてより有効に機能することを心より期待する。
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